たぴおかのぶろぐ

NEWSファンによるブログです。超絶私的ですがあしからず。

加藤さんが結婚した

加藤さんの結婚

 

加藤さんが結婚した。世界で一番大好きで、私にとって、心では一番近くに感じている人がついに結婚した。

一番大好きな人に一番大切な人ができた。一番大好きな人がとっても大きな幸せを掴んだ。その事実を心から祝福したいはずなのに、それができない自分が確かにいる。

その理由を明らかにしたくて、私は今この文章を書いています。

 

3月3日、結婚発表を知った瞬間、一番に出た感情は「おめでとう」だった。「加藤さんよかったね、おめでとう!」って思った。家族やジャニオタ仲間の叔母にまで加藤さん結婚の報告を嬉しそうに送った。

でも、そのあと一日中なんだか気持ちがふわふわしていて、曜日感覚もなんだかわからないし、時間の経過も曖昧に感じてしまうような意識の中にいた。

加藤さんの結婚を心から祝福したいと思う一心で、その不思議な感覚に蓋をしていた。

この感覚を言葉にすることは難しいけれど、私の中にあるのは明らかにプラスの感情ではない。寂しいような悲しいような、でもそうとも言い切れないような、今まで感じたことのない感情だった。でも、世界で一番大好きな人の大きな幸せにそんな感情を抱いてしまう自分を認めたくなくて、「今日は加藤さんの記念日だから私も頑張れる!」などと、加藤さんの誕生日に抱く感情と同じようなものを自分の心の中に懸命に作り出そうとしていた。苦しかった。

 

でもそんな中、感情とは別に考えたことがある。それは、「これでやっと私も幸せになれる。」ということ。

私はなんだか、加藤さんに自分が幸せになる覚悟を決めさせられたような気がした。

 

私が加藤さんを好きになったのは中学1年生の時、学校が楽しくなくて勉強も部活もパッとせず、人生で一番の挫折を感じていた時だった。そんな時、「美しい恋にするよ」のライブ映像をみて、加藤さんを好きになった。

映像の中の加藤さんは、不器用そうにも必死にアイドルをしているように見えて、でもその様子がとても幸せそうで、私もここで必死に頑張れば、ステージの上で一筋の光を掴んだように見える、あの加藤さんのようになれるかもしれない。そんな風に思った。

そこから加藤さんは、私の人生になくてはならない存在になった。ときには「先輩」とも言えるし「同志」なんて風にも思っちゃうし、「師匠」でもあったし「糧」でもあった。

この世界で、私の少し先を道をかき分けながら進む加藤さんの背中を、私はずっと追いかけてきた。

 

加藤さんみたいになりたい。でも、加藤さんになりたいわけじゃない。

いつか加藤さんと仕事をしたいというのが私の中学生の頃からの夢だ。人間としての加藤成亮とは言わないから、私がずっと追いかけているアイドル「加藤シゲアキ」と対等に仕事ができるぐらいの人間に成長したい。そんな思いからくる夢だった。

 

でも実は最近、自分自身の中でそのような感覚が変わっていっている実感もあった。

私は4月から社会人になる。コロナ禍で上京して、約4年間の一人暮らしも経験し、無事に就職先も決まった。そんな中で、ある程度自分自身にも自信がつき、もう加藤さんの背中を追いかけるのはやめた方がいいのかもしれない。私は私の人生で、自分自身の指針のもと成長していかないといけないのかもしれないと思い始めていた。そのような矢先の結婚発表だった。

だから私は、この発表を聞いたとき、非常に個人的な考えではあるけど、これは「腹をくくるなら今だ」という加藤さんからの合図かもしれないと思った。

 

中学生の頃からずっと加藤さんを心の拠り所として、(加藤さんが私を知ることなどないのだけれど)きっと加藤さんなら私を理解してくれるという望みに頼って、なんとか人生をやり過ごそうとしていた私に、加藤さんの結婚という事実は、残酷にもそんな望みは妄想でしかないという事実を突きつけてきた。私にとってはそれが一番辛かった。

別に現実世界で加藤さんに出会えるかもしれないとかそんな空想を抱いていたわけではなかったのだけれど、私のことをきっと理解してくれる人がいるという希望を加藤さんという存在に昇華して、己の現実世界でのなんとも言えない孤独感を紛らわせていた。

 

思い返してみると、私は中学の時の挫折を、今までずっと引きずってしまっていたのかもしれない。誰も自分も世界も嫌いになってしまったあの瞬間からもう立ち直ったつもりでいたけれど、たぶん私はまだその挫折の延長線上にいる。でも、明らかに今、そこを抜け出そうとしているような気もしている。

あれから加藤さんに出会い、NEWSを応援していく中で少しづつ世界を好きになり、自分の周りの人をまた好きと思えるようになり、最近は「私は自分を好きになりたいのだ」と気づいた。

 

加藤さんを同志と感じていた理由の一つに「自分を好きじゃなさそう」というところがあった。でも、最近の加藤さんは自分を好きになっているように感じていた。そんな加藤さんを見たから、「私も自分を好きになりたいな」と思ったのかもしれない。だって今までの人生も、そうやって加藤さんを見倣って、自分自身に気づきを得て生きてきたのだから。

 

今、私は本当に変わるべきなのかもしれない。いや、今変わらないならいつ変わるんだ!!

加藤さんの後ろを追いかけてきたような私の人生。

いつも私の前を進んでいってくれていたその加藤さんが結婚した。自分だけの、人生で一番の愛の覚悟を決めた。そしてそれは、きっと加藤さんが自分を全く愛すことができるようになったからだろう。(このように考えるのも、いつかの加藤さんの言葉があったからなような気がする。)

 

加藤さんが「品のある人」がタイプだというから「品のある人」を目指したし、加藤さんがいたから自分の人生の座右の銘を「成せば成る」にしたし、「刃を抱けるような人間になれ」と肝に銘じてきた。そうやって、加藤さんの言葉を借りてなんとか自分をつくっていき、肯定し、中学のあの挫折から今まで這いつくばってきた。

でももう、その貸してもらっていた絆創膏のようなものを剥がすときが来たのかもしれない。傷ついた私に加藤さんが貼ってくれたたくさんの絆創膏を、もう剥がさなければいけない時が来たのかもしれない。

私は私の理想の人にならないといけないし、自分の座右の銘を持たないといけない。自分で「人生で一番大切にしたいこと」を決めて、それを抱いて生きていかないといけない。

 

でもこの絆創膏は、決して加藤さんに無理矢理剥がされたなんてわけじゃなくて、多分、その傷にカサブタを貼れるぐらいに私が人生を進んできたから剥がさなきゃいけない時期がきたもの。

 

中学の時からずっと、私は加藤さんに支えてもらってきた。加藤さんという存在があったから、私はどんな時でも助けられたし、救われた。人生を少しずつでも歩んでこられた。

そして気づけば後ろには、(まだまだこれからだとは思うけど)自分が思うよりもしっかりとした私という人間の道が出来上がっていた。加藤さんの結婚で、私はそれに気付かされた。

 

加藤さんはいつもタイミングが良い、いつも私の人生の一番良いタイミングで一番良い合図をくれる。(でも、こんな風に感じている加藤担は私だけじゃないはず。)

 

私はこれまで、加藤さんに見つけてもらったような気持ちでファンをやっていたけれど、これからは「こんな素敵なアイドル、私が「見つけたんだぞ!」」という気持ちでファンをやってみようと思う。

こうやって加藤さんを好きな自分を好きと思うことが、自分を好きになっていくための第一歩になるような気がする。

 

ああ、これじゃこの期に及んでも加藤さんに頼ってしまってるか。(笑)

まあでも、これで良いのかもしれない。加藤さんに縋って、助けられて生きてきたような私かもしれないけど、これも紛れもなく私だ!!!

 

これからも加藤さんを好きでいたい。

加藤さんを好きで、大好きで過ごしてきたこれまでの自分を否定しないためにも。

「これからもファンの皆様と一緒に」と綴られたメッセージ。

私もまだまだ加藤さんとともにいたいよ!そしてこれから、自分の人生を切り拓いていきたいよ!私も加藤さんの明るい未来をずっと見てるから、加藤さんも見守っていてね!!!そしてお互い、とってもとっても幸せでいようね!!

いつか私にも、愛を決心できるような日が訪れるといいな。

尾崎豊さんのレリーフに行って思ったこと。

今日は渋谷に行ってきた。特に何をするあてもなかったんだけど、とりあえずご飯を食べた後、ふと思い立って、シゲがStrawberryの特典で行っていた尾崎豊さんのレリーフに向かった。

 

あの場所は渋谷のど真ん中ってわけではないけど、でもすごく中心に近いところに位置していた。さらに歩道橋の上っていう、高いとも低いともいえない感じの場所だから、あそこからみる景色はなんだか不思議だった。都会の中にポツンと一つ島が浮いていて、そこにひとり立っているようなイメージ。ちょっと孤独感をも感じられた。

 

シゲはよくあそこから渋谷の街を見渡していたって言ってたけど、まだ中学生だったり高校生の子があそこからみる景色はどんなだったんだろう。想像してみると、まだ多感な時期の子があそこから、あの景色を見渡すのはちょっぴり「酷」なような気がしてしまった。人もビルもたくさんあるあの街の景色は混沌とし過ぎていて、受け止めきれないんじゃないかと。

 

ここからは本当に私の勝手な想像だけど、シゲが「渋谷サーガ」を書いたのは、10代のころに受け止め切れなかったあの「渋谷」を、ちゃんと消化したかったっていう思いがあったからなんじゃないかな。Jr.の頃もお仕事が忙しかったり、高校生でNEWSとしてデビューしたりして、きっと私たちが想像できないぐらい目まぐるしい毎日を、あの多感な時期に、加藤さんは必死に生きていたんだと思う。10代ってアイデンティティが確立されていく時期でもあって、自分と向き合うことがすごく大切になってくると思うんだけど、たぶん加藤さんは毎日を過ごすのに必死でそれが満足にできなかったんじゃないかな。だから記憶の中にある10代の頃に見た「渋谷」に、大人になってからもう一度向き合うことで、本当の意味で10代の自分に蹴りをつけようとしたのかなと思った。

 

渋谷に行くと毎回何か考えさせられるから、やっぱり不思議な街。

『世界』について

『世界』

「この手の情けない生き様を握りしめ」から始まるこの曲は、発売から約一年半ごしにやっと、私の心に響く曲になった。

 

発売当初は正直この曲の意味が解らず、でも大好きなシゲの曲だからなんとか解りたいという思いで何度も聴き直した。「誰にも託せぬ夢」って何?「刃を抱く」ってどういう事?他にも「吐き出した息」「手に入れたかった視界の色彩」もういろんな歌詞の部分部分が引っかかってしまって、正直歌を聞いていたというよりは、歌詞を必死に追う感じでCDを何度もリピートしていた。

そんな私もあれから自分なりに人生の山みたいなものを乗り越えて、そして今また自分的には新たな山場にいて、それでやっと『世界』の意味がわかったような気がしている。今、『世界』は他のどの曲よりも、私の心に響く曲だ。

 

さて、ここから少し、筆者である私自身の話をしようと思う。私は最近上京して一人暮らしを始めた。私には小さい頃からずっと変わっていない「夢」があって、そのための大きな一歩を、この上京によって踏み出したと感じている。でも、やはり慣れない土地、親しい友達がいない中での新生活はやっぱり不安で孤独だ。さらに、元来考えすぎる性格の私は、一人の時間が増えたことにより、ますます色んなことに対して思い詰めるようになり、それはけっこうキツかった。そんな生活の中で疲れてしまって一日中ボーッとしたりしてしまうと、それにもさらに嫌悪感を抱く。何もしなかった、自分が今日一日何も進歩しなかったように思えて自分が情けなくなる。

「それなら一層、もう夢のことなんか考えずに、今を楽しく生きてみようか」なんてたまに思ったりするけど、でもやっぱり私にはどうしても叶えたい「夢」があって、その夢を手放す勇気すらない。だからまた、周囲にわざとらしく「夢」を掲げてみたりして、なんとか自分を奮い立たせようとする。「もう少しがんばれ」と。

 

こんな風な私の今の心情が、『世界』の一番の歌詞にとてもリンクしているように感じた。シゲは『世界』発売当初、「これは僕の歌でもあるし、あなたの歌でもある」と言っていた。

ああ、きっとシゲも今の私みたいな状況を何度も何度も乗り越えて、それで今のシゲになったんだろうな。そう思うだけでなんだか気持ちが楽になって、ちょっと元気が湧いてくる。

 

それにしても、自分の経験を歌にして届ける。そしてそれを「あなたの歌にしてほしい」って、加藤さんは本当にアイドルとして行き過ぎなぐらい誠実だ。今悩んでいる人の状況を、それを乗り越えた自分の経験に投影させてあげるって、苦しかったり、辛い思いをしたりしている人にとっての、一番救われる向き合い方だと思う。自分が辛かった経験を思い出して噛み砕くって本当にエネルギーのいることだと思うし、日常生活で近い人が悩んでいる時にさえ、みんなが必ずしもそういう風に向き合ってあげられるわけじゃないと思うから。加藤さんには本当に、「誠実」という言葉が一番似合う。

 

私は明日もきっと『世界』を聴きながら、「私が大好きなアイドルが加藤さんでよかったな」と心の中で呟いてる。

初めて「ネバエン」を見た感想

今更ながらNEWSの「Never Ending Wonderful Story」を見た。

NEWSファンになって間もないってわけではないんだけど、実は今まで4人以前のNEWSのコンサートはあまり見た事がなかった。それは、山Pと亮ちゃんが嫌いとかそういうわけではなくて、4人のNEWSとそれ以前のNEWSは別物っていう感覚が自分の中にあったから。でもNEWSが3人になって、4人のNEWSがNEWSの「歴史」になって、急に今までの「歴史」も振り返ってみたくなった。そこで今回、6人になってから初めてのコンサートである「ネバエン」から見てみることにした。

 

見始めてまず思ってことは、当たり前だけど6人のNEWSも「NEWS」だったってこと。

私は4人のNEWSの、すごくバランスが良くて過不足ない感じが好きだったんだけど、6人のNEWSもそれでしっかり過不足なく成り立っていて、同じようにすごくバランスが良いグループの形だったんだなと思った。当たり前かもしれないけど、今までほとんど4人のNEWSしか見てこなかった私からすると、この事実は結構衝撃的だった。

 

15周年ライブの時に「キーソング」的な役割を果たしていた「Stand Up」がこのNEWSの復活コンサートの最初に曲だったっていうことも今回初めて知った。そうすると、15周年ライブの「Stand Up」を入れた意味もわかってきて、そんなことからも、やっぱり何人のときもNEWSはNEWSで、その上に今のNEWSが立っているんだなというのを改めて感じた。すると、NEWSが楽曲を今の人数で歌い直す時に、「上書き保存」じゃなくて、「新しく別の名前をつけて保存」する意味が改めてわかったような気がしたし、私は、こんな風に自分たちが今までの歴史の上に成り立っていて、それまでの歴史も大切にしていかないといけないと思っているNEWSがすごく好きだなぁと思った。

 

でも4人のNEWSに見慣れた私が6人のNEWSを見ると、やっぱり少し「違う」感じがしてしまうのは否めない。それでも一人一人を見ていくと、やっぱり根本的な部分は今となんら変わらないけーちゃん、シゲ、まっすーがいて、何にも変わらないそれぞれの関係性があって、それには勝手ながらちょっと安心した。

けーちゃんがソロで「愛」を歌ってたりとか、シゲは変わらずメンバーのことが大好きで「ンフフフフ!」ってよく笑ってたりとか、まっすーは相変わらずドキュメンタリーにあんまり登場しなくて、でもたまに出てきたかと思えば独特なボケをぶっ込んできたりとか(笑)。

そこには、シゲマスの同級生感も、コヤシゲの、お互いが「お前しかいない」って思っているようなシンメ感も、13年前なのにちゃんとあった。

NEWSが3人になって、私としては初めて大好きなグループから一人抜けるっていうのを経験して、4人っていうこと以外の、今までのNEWSのその他の要素も変わっちゃうんじゃないかっていう漠然とした不安があったけど、6人から4人になっても根本的な部分は変わらなかったんだなっていうのを知って、少し不安がなくなったように感じてる。

 

ちょっと話は変わるけど、昨日ダウンタウンDXの予告でまっすーがNEWSが3人になったことをネタにしてる(されてる?)のを見た。他にも最近NEWSがテレビに出るときは3人になった事がよくネタになってることを目にする。悲しいって思うよりネタにして笑い飛ばしながら前に進んでいくことにいいねって思う自分と、まだ4人に未練タラタラで、ネタされていることに笑えない自分がいて、実は、その気持ちを払拭したいという思いも今日DVDを見るに至った理由の一つだったんだけど、やっぱりまだ払拭とまではいかなかった。

逆に、「ネバエン」が6人になってから初めてのコンサートで、ファンの前にでて6人がすごく安心してるのを見て、やっぱりコンサート行きたいなーって、NEWSが一番安心してくれてファンも安心できるのってやっぱりコンサートなんだよなって再認識して、ちょっと悲しい気持ちになってしまった。

「けーちゃん、シゲ、まっすーは元気かな?」最近そんなことばっかり考えてて、本当に「会いたい」ってただそれだけを思って過ごしてるけど、世界はまだ全然穏やかじゃなくて、本当いつになったら収まってくれるのかな~って毎日のように思う。

 

NEWSの3人はファンミーティングを開いてくれたりとか、音楽番組に出てくれたりとか、着実に3人のNEWSの歴史を創っていってくれてはいるんだけど、どうしてもまだ3人のNEWSが私の中ではっきりしてなくて、漠然と不安に思ってしまう。

私の中ではまだ、4人のNEWSの思い出が全くあせることを知らないぐらい色濃くて、それだけあの時間が幸せだったっていうことを最近改めて感じてる。

 

でも今回「ネバエン」を見て、私が知らなかった4人以前のNEWSの素敵なところも知って、そんなキラキラした、たくさんの思い出が詰まってるNEWSを残してくれたけーちゃん、シゲ、まっすーは、本当に逞しくてかっこいい!って改めて思った。

 

まあこの期間は、こんなふうに過去のライブ映像を見ながら、NEWSの歴史を知って、NEWSのことをもっと好きになるためのものかな!?そうやってNEWSのこともっと好きになってから次のコンサートに行けるように、この期間はパワーを貯めよう!!

こんなに大好きなNEWSがまだそばにいてくれてるんだから、そろそろポジティブにならないと。

 

「ネバエン」を見終わってこんなことを考えた。

 

 

「なんでも許せちゃう」性格について

 けーちゃんは自分の性格をよく、「なんでも許せちゃう」って例えるけど、その言葉の真意はただ単に「心が広い」とかそういうわけじゃないと思ってる。

 私もわりと「なんでも許せちゃう」性格だ。あんまり人のことを嫌いって思ったことはないし、その人がどんな行動をしていたとしてもこういう理由があるんならしょうがないなーって勝手に想像して納得してしまっている事が多い。でも、こんな自分の性格を考えてみたときに、けーちゃんと圧倒的に違うなと思うことは、その「許せる」根拠が「経験」に基づいていないこと。

 「NEWS大集会2020」でも言っていたように、けーちゃんがなんでも許せるのはそれだけ人生経験があって、「ものごとを広く見られるようになった」から、つまり、経験に基づいて様々な「視点」を持っているからこそ、その中にどんな出来事も許せる「視点」が必ずあるのかなと思う。

 私が「なんでも許せちゃう」のは自己防衛のためでもあると思ってる。まだまだ未熟で至らないところがたくさんある自分を否定しないために、世の中の人々のあらゆる言動を認めているのではないかなと考える。だって、それを否定してしまうことは、自分を否定してしまうことにつながるかもしれないから。

 けーちゃんの許せる根拠は「経験」にあって、私の許せる根拠は「想像」にしかない。言い換えると、私が「なんでも許せちゃう」のは私がまだまだ未熟で「弱い」からで、けーちゃんが「なんでも許せちゃう」のはたくさんのことを経験し、乗り越えてきた「強さ」があるから。

 私もけーちゃんみたいに、なんでも許せる「強い」人になりたいなと思う。